UFOばなし

ソコロ事件のロニー・ザモラが目撃したUFOは、当時普及がはじまったばかりの少人数乗込式のゴンドラ熱気球だったのではないかと考察しているブログを見た。

http://blogs.yahoo.co.jp/to7002/35571572.html


この意見は興味深い。


ユングの『空飛ぶ円盤』を読むと、キーホーやルッペルトの本の内容を、わりに無批判にユングが受け入れているらしくて、なんだかハラハラしてしまうのだが、


見たものの対象を表象することと受け取ることに関する、マジカルな感覚について、これはユングのような方向性ではないやりかたで、一考するに値するものだと思う。針小棒大を許す、心の不思議。私たちはとりあえず言語に頼ることでしか他人と通じあえない現実。


上空にみえかくれしているならともかく、地上に不時着した熱気球をUFOと見間違えるだなんてと、現在の私たちは思うが、しかし、というわけである。

ゴジラ第一作

ユングの本を読むのに疲れたので気晴らしに見たのだが、通してみるのは初めてで、こんなに含蓄にとんだ作品だとは思わなかった。


もしも日本人が最終兵器を発明したら、というスペキュレイティブ・フィクションだったのである。アメリカの水爆実験で誕生した怪獣が日本を襲うのに、この映画の日本政府はアメリカを非難しない(本作はサンフランシスコ講和条約の2年後に公開された映画だ)。「事実は事実だ!」と叫んで、ゴジラの存在を国民にしらせるべきだと訴える婦人議員を菅井きんが演じる。


日本の人民が、主権を得て、すべての事情を知ったうえで、納得して自死する。そういうファンタジーの象徴として、芹澤博士が描かれる。疎開について考えることを面倒くさがり、ダンスにふけるカップルが、まずまっさきにゴジラに殺されるのも、なにやら意味深である。宝田明河内桃子カップルの結婚への障害として平田昭彦(芹澤)が配されているのもいい。


戦後の幸福とは何かをうまく考えることができないままかりそめの主権を取り戻し、生活もようやく楽になりかけた、そういう時期に「理想的な戦争の終わり方」を考えた。『ゴジラ』はそのような映画だったのだと私には思える。


東宝特撮が1960年代から急速にバラエティ番組化した理由を考えているのだが、やはり、終わりの先を考えることができなかったからなのではないか。自死した芹澤の「幸福に暮らせよ」という言葉に呪縛されて、皇太子成婚(映画斜陽のはじまりの出来事)、東京オリンピックから万博、そしてそれ以降の狂騒があったのではないだろうか。


その技術詳細が開放されたオキシジェン・デストロイヤーとして、原発を考えることもできそうである。戦争からの逃避と、熟慮を欠いたむやみな幸福の追求としての日本の戦後は、去年、終了したのだった。

マンダラをほどいたものが映画?

ユングは1875年に生まれているから、1856年に生まれたフロイトよりも映画に親しんでいたのではないか、というのは私の勝手な思い込みだが、20歳のころ映画の誕生を迎えて、トーキー化を遂げたころでもまだ60歳にすぎなかったユングの人生はたしかに興味深い。


ユングの本を読んでいて、マンダラを時間軸方向にほどいたものが映画である、というアイデアが浮かんだのだがどうだろう。つまり映画は映画で一面性を持っているが、それは90分なり120分なり「しかない」がゆえの一面性であって、その一面性はマンダラに通じる一面性なのではないか。一日の活動時間が16時間だとして、16時間の映画があったとすれば、それは映画であると同時に、時間軸方向に展開されきったマンダラとも呼べるのではないか。

楽器と服装

映像の点滅が激しく目が疲れるので、視聴には注意してください。


ホルン奏者たちだけ正装なのがなんだか不釣合いな気がするが、案外日本の純邦楽の人が封建時代の格好で音楽を奏でるのと同じで、楽器にはドレスコードが付随するものなのかもしれない。


私たち現代日本人は西洋文化に対して奇妙な屈託を抱いているから、クラシック音楽をそれほど「古臭い」という枠組みから受容することはないのだが、西洋人たちは自分たちのかつての文化を、古いがゆえに忌避したり、逆に古いがゆえにかえってよりどころにしたりするのかもしれない。日本人はクラシック音楽に不思議なニュートラルさの感覚を抱いている。

ユング

心は意識よりも広くて、意識では捉えられない心の部分が、無意識から夢や象徴のかたちをとって表れてくる、というのは、まあ、わかる。


ようするに、そういう不可知部分を形式化すると、言説は一挙にあやしくなる、ということなのだろうな。私はフロイトの自我構造論も、あまり信用してはいない。


個性化や錬金術など、ユングの言うことでもとくに眉唾におもわれる話題を、しかし、とりあえず読んでおくことはしておこうと思ったのである。


ユングは1961年に死んでいて、映画の残酷表現が急激な発達をむかえる直前に亡くなったとも言える。彼が『椿三十郎』や『ワイルドバンチ』、『ナイト・オブ・リビングデッド』、あるいはぐっと時代が下って『ブレインデッド』などを見たら、どんな感想をもらすのか、聞いてみたい気がする。


ちょっと面白い気がするのは、私たちが、過激な残酷表現に親しみつつも、80年代だったら宮崎勤の事件、現在だったら東日本大震災の犠牲者らを慮って、事情に応じて適宜残酷表現の視聴を控えることである。これはあるいはユングの神話論の対象なのかもしれない。私たちは虚構に親しむ形で、いけにえを欲し、現実にいけにえが現れたら(表れたら)、自分たちがいけにえを欲していたことを抑圧し、自粛する。この繰り返しのダイナミズムによって、生の実感を構築しているのではないか。日々、みずからの肝を試しているわけだ。

言葉はわからなくて当然、という考え方

万葉集をはじめから順に読むと雑歌などあって、しかも短歌ではなく長歌や旋頭歌などの長いものは、こちらがそもそも古典の教養を欠き、さらには古語辞典も碌に引かずに読んでいるからというのもあるが、これらがよくわからない。「そのこころは」と言うときの心、つまり意図がよくわからない。


原文をにらんでいて、ふと気付いて、はっとしたのだが、これは話が逆で、わからないのが当たり前だったのだと思うことで、腑に落ちた。偉い人が、言葉を選んで表象することそのものが歌の眼目なのである。解釈は追ってゆっくりすればいい。


私は現代人なので、枕詞とか掛詞とか、古代人のくだらない風習だくらいに、つい考えてしまう。しかし、なにごとにもルールはあるものである。

「ジョジョの奇妙な冒険 パクリ糾弾テンプレまとめ」

http://www30.atwiki.jp/ichi-1/pages/12.html

2009年からやっていて、47万ビュー程度というのが意外である。


扉絵や表紙絵は、あきらかに剽窃しているが、漫画のほうはどうだろう。これはアレンジの範囲内としてあげていいのではないか。


ディオの「無駄無駄」の源流が『愛と誠』(未読)にあるらしい、というのは面白かった。スタンドの元ネタが『神の左手悪魔の右手』(未読)というのも初めて知った。