隗よりはじめよ

 kokadaさんが紹介していた佐倉統(さくらおさむ)のツイートには疑問がある。まじめにインフラ維持に従事してつつましく暮らす市井の人々(とまでは佐倉は言わないが)に対して坂本龍一の傲慢は一体全体何事か(とまでは佐倉は言わないのだが)ということであるが、その対置はおかしいとおもう。


 注目の的である人間がその名声を利用して政治発言をすることのなにが悪いのであろうか。坂本龍一はある産業に従事する名もなきつつましやかな生活をいとなむ人々の立場を尊重することよりも、その産業が存続不可能になる可能性をも視野に入れて、その産業の社会における意味を考えようと言っているのである。「たかが電気」のたかがとはそういう意味である。


 本当のことかどうか調べようもないが、大阪府だか大阪市だかの職員の息子が、父親の給料がカットされたことによって、自分の大学進学の夢が断たれたことを2ちゃんねるで愚痴っていて、しかし可哀そうに、反応してくるやつらはみんな橋下改革の信奉者だったから、彼はいいようにいたぶられてしまった、という一幕を、私はかつて傍観した。彼をいたぶることで溜飲を下げた2ちゃんねらーは、このごろのいじめ問題についても、かつてのわが身を振り返りもしないで犯人捜しに身をやつすのであろう。


 公憤の種というエサをあさるブロイラーどもが、狭いケージに押し込められて、クワックワッ!! と喚いている、というわけだ。私は上記2ちゃんねらーと佐倉とを、区別することなく、似たようなブロイラーなのだと思ってその言(寝言?)を聞いた。


 隗よりはじめよ、といつも思うのである。佐倉も学者を辞めて、レジ打ちなり掃除夫なり荷降ろし係なりで生計を立てればいいと思うのである。そのうえで思ったことを正直に述べればいい。聞く人は聞いてくれるものである。私は荷下ろしの仕事を1日だけやったが、あれはすごい仕事である、あれを定職にする人を、私は本気で尊敬するのである。


 ちなみに私自身はあんまり反原発に興味がない。これがまだ東海村の開発もはじまっていなくて、これから原子炉を作りはじめようという時期だったら、あるいは必死になって運動したかもしれないが、そういう時期からもう60年も通過しているのである。暇な連中がわんさかいるらしいことはじゅうぶん分かったので、彼らにカメラを持たせて、日本中の放射性廃棄物がどういうふうに処分されているのかを徹底取材してくんないかなー(橋本治風)、と思うのである。数人はやくざに暗殺されるであろうが、なに、名誉の殉職である(筒井康隆風)。私は視覚的人間だから、原発がテーマになっても結論はない。常に言うのは「ちゃんと見ようよ」これだけである。

現代の自我の病と、著作物の尊厳について

http://togetter.com/li/338917

 これは面白かった。いま私は、ジェームズ・キャメロンが『アバター』を作った意味についてあれこれ考えていて、それは要するに創作物は作者の分身であるのか否か、といったようなことで、この現代のいきすぎた(?)情報化社会における作者と享受者をめぐる関係のグロテスクさというものを、このトゥゲッターは、まざまざと私に見せつけた。


 さきほどは「分身」と言ったが、『アバター』のアバターはどちらかと言えば義体と呼ぶべきであろうか。私は残念ながら近藤ようこさんの御本は拝見したことがなくて、私は最近は漫画と言えば滝田ゆうつげ義春の作ばかり眺めているのだが、近藤さんはトゥゲッター構成者に採用されたつぶやきにおいて、自分の著作、それも新刊という属性をもった「義体」の行く末を心配されているのである。小谷野さんはかつてブックオフに直行させてもいいから新刊を買ってと訴え、兵頭二十八(ひょうどうにそはち)はかつて鍋敷きにしてもいいから新刊を買ってと訴え(記憶違いかも)、故山本夏彦(エッセイストで出版社社長でもあった)は人数分買わずにグループで、かつて自分が出版した本を一冊だけ買って回し読みしてノートをとった元大学生らの「苦学の思い出と感謝のことば」を苦りきった顔で受け取った。


 私のような貧乏人の家にまである『アバター』のブルーレイ。これは中古で買ったものだが、これもジェームズ・キャメロン義体であると強弁すればできなくもない。義体を手に入れて、数時間自由自在に動くことができる。キャメロンは映画を畢竟そのようなものであると結論付けて、喝破し、それも強く喝破し、ふたたび世界の王となったのである。しかも、この考えはなんら独自のものではなく、『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』や『マトリックス』を、すこし、しかし上手にひねっただけのものであるのも、私は面白いと思うのである。キャメロンの賭けは、どちらかといえば立体映像のシステムづくりにあって、こちらは誰でもできるといったものではない。


 有償と無料と身体との関係といったことも、思う。私は病的なところがあるから、映画もしばしば病的に楽しんでしまう。一般の人は、映画は一度観てしまえばたいていそれっきりだが、私は繰り返し見てしまうのである。こういうことはおたくであれば一般的な、それこそよくあることかもしれない。しかし、つぎが普通のおたくとちょっと違うところで、その経験を財産と思いたくないのである。自分の経験を宝物として大事にしまいこむおたくもいるだろう。反対に、他人が煩わしく思うまでに周囲にむかって宣伝し、喧伝し、伝道していくタイプのおたくもいるだろう。私は、そのどちらでもなくて、私の体験が私だけのものであることを否定したい、という矛盾した意識を抱いているのである。


 私もまた現代人として、他人が病むような自我の病をごく平凡にうじうじと病んでいるのである。自分の収入を自分が見る景色(映画ばかりではなく、漫画もそういう「景色」の一部)を選択する資本に充てなければならない。この現代の掟に、名もない読者大衆ばかりではなく、ジェームズ・キャメロン近藤ようこもまた、制限されているのである。『アバター』が2D映画でしかない可能世界に、もはや私たちはアクセスできない、そのような歴史に私たちは属してしまっているのである。私たちは歴史を自由に選べたりなんかはしない。


 トゥゲッターに採用されたつぶやきのなかで、いつから乞食がこんなに偉そうになった云々ということを書いていた人がいたが、じつはそれはちょっと違うのである。現代の社会は福祉が発達している建前になっているので、社会の不備が生み出した乞食はいないことになっているのである。乞食がいるとしたらそれはかれが趣味でやっているのであり、趣味として選択されているのだから、乞食にかぎりなく近い乞食のようなものでしかないことになるのである。乞食のふりというのは、これはすぐれて現代的な自我の病、いいかえれば精神の病であって、自分は乞食ではないという確信があることで、かれはやっと乞食になることができるのである。「クレクレ君」というのは、そういうものである。過去、乞食になるリスクがリアルかつ頻繁に社会には存在したが、それに対して、現在ではバーチャルな生老病死愛別離苦に苛まれるという、そういう宿命を人類は背負っているのである。バーチャルな乞食はバーチャルな喜捨を求めているのであるから、実際に喜捨が得られるかどうかは、(驚くべきことに)実は二の次なのである。


 創作物は商品となることで、みずからを創作物であることから遠ざける。ろくにマルクスも読んでいないのになにやら無茶なことを書きはじめたが、続ける。作者にとって、自分の作品が創作物であり同時に商品であることを社会に要求するのは、法外なことであろうというのが、私の感覚である。創作物は「私の志集」として、道ゆく人に配ったり、展示頒布会をひらいて市民センターの会議室を借りるなりすればいいと思う。そうやって頒布したものだけが「創作物」である。「タダで配る」という表現に、近藤ようこさんも読者大衆氏もすこしくこだわったが、やはり両氏においてともに「配る」ということへの想像力が衰えていたようである。同人誌などはもともと多く買われることを想定しないから、利益はあまり予算に盛り込まれない。別途徴収した同人費で補填するのが普通である。


 だから私は、非売品として存在させられた創作や著作物に対しては、公の場で論評してはならないと思うのである。アクセス制限がかかったものをブレイクしてはいけないと思うのである。尊厳は、そういう形でなければ、守れない。しかし商品の論評は、逆に、社会にとって必要なことでさえある。


 商品という存在は、相対性を必須のものとするが(昨日のヒット商品が明日のゴミ)、著作物には、通常、ひとつの心の状態しか搭載しておくことができないのである(青春のころに出会った書物に一生影響される)。著作物を商品化することの問題、あるいは現代の自我の病の淵源がそこにはある。


 ああ、たかが映画について、たかが漫画についてこんなに熱くなってしまった。いや、たかが世界について語ったのである。 

あれこれ

東大生が不謹慎な冗談をツイッターに投稿して、東大準教授の人がこれを憂慮して制裁的な対応の可能性をツイッターで言及したら、さらに「外部の」ツイッターアカウント複数名から東大純教授の人の行き過ぎが議論される、という展開が、去年、震災後すぐの時期にあったらしい。


私はこの準教授の人を知らなくて、上記事例も携帯のツイッター画面で知ったので、準教授の人のことを検索することに思い至らなかった。で、いまPCでそれをして、背景事情が得られたわけである。得たのである。あはは。


不謹慎という状態、公共ということの状態、各種の性質についていつも考えてしまう。「場」というのは客観なのだが、自分がそこに入り込まないと、あんまり自分にとって役に立つように機能してくれない、など。


公共での各人というのはブラックボックスなのだなあということを最近とみに思う。私はフロイト心理学やユング心理学に、自分の心を知るためのホビーとしての価値しか認めなかったが、果たして、他人の内部を知るための技術としては、どうなのだろうと思うのだ。


表現する人の内面は、フロイトユングでけっこういいところまで行けるのだが、大事なことは、多くの人は、そうそう表現なんてするものではないのだ、ということだ。普通の人は、証拠を残さない。「そんなこと言ったっけ?」である。


ユーモアは大事なものだと私も思うが、しかしそういう感想から一番遠いものがユーモアであるとも、私は思う。要するにデモーニッシュな心の躍動を、どこまで他人に見せるべきなのかということである。


私が都会から動かず、畑も耕さず、家畜を捌くことなく、海に漁をするために出ることもなく、なのに生存していられるのも、要するに、人々の心の躍動を介助することで金銭を得ているからである。このブログは私に金銭的利益を生んでくれないが、しかしそのかわりに、私の心が高度に躍動することを目指した文言を記録することに私の心を使用させてもらっている。


都市は、証拠が乱舞する世界である。証拠をかき集めて、それを価値づけすることに都会の人は汲々とする。カフカはこういう世界のことを早々と文章世界にまとめて社会に遺した。都市は古代からあり、文章も古代から残っている。しかし、その文章が世界としても機能することを人々がメッセージに残し始めたのは、言い換えれば、散文とリアリズムと統計の勃興は、どうも数百年くらい前からであるようだ。


だから、都市ということについても思うところがある。災害で都市インフラが破壊されて、それを復旧させるのは大変な事業である。地権者の寄合い、自治体担当者との意見交換を追ったドキュメンタリーをちらっと眺めていて思ったのだが、日本の家屋というのは、屋根があるから建増しが難しそう、というよりももともと建て増すことをあまり勘定に入れていない建築方式なのかな、ということである。


都市について考えることは、要するに平和について考えることだ。平民というか、身分制度が生きていたころは平民という発想もあまりなかったと思うのだが、下っ端仕事しか与えられていない人間は、家族をつくることが社会から想定されていなかった、そのことの意味を反省するべきだなと思うのである。


イエを包む建物として「家」があることの意味。仕事の意味。存在の意味。各人の心のデーモンをどこまで開放していいのか。都市の問題。情報空間の問題。不謹慎の問題。

心の闇と映画(『先生を流産させる会』)

そういえば心の闇という言葉も、なんだか馬鹿が好む言葉のような気がして、私はまず使わない言葉である。心というのは、通常他人には見えないか見えにくいものとされていて、さらにその奥かどこかに陰になっている部分があってそこになにやら汚らしい何者かがうごめいている、ということなのであろうか。


非破壊検査というものがあって、これは建物などの強度を調べるのに実際に強い衝撃を与えて壊してみるわけにはいかない場合に採用する方法なのだが、命の大切さについての仮想的な非破壊検査として、古くは宗教説話、現在では映画があるのだろう。


偉い方があなたをお創りになったのだから、あなたは勝手に自殺して偉い方の仕事を台無しにしてはならない、というのが例えばキリスト教の自殺禁止、ひいては他人も殺してはいけないことの理由付けである。生命尊重の原理が、他人の財産権を尊重することの原理(についての虚構)に根拠づけられて考えられているのである。


映画『先生を流産させる会』は、胎児を殺す少女を描くことで、生命の尊重について考えるアプローチを採用している。日本の平均的な「生命尊重説話」は、「殺そうとしても殺せない人物」を描くことで、人間は基本的に人間を殺せないのだという類型を表現して、表現の受け手に、その類型こそが人間の真実で、観客であるおまえもこの類型に嵌らなければならない、というメッセージを強制してくる。映画のスタッフは、日本の平均的な行き方とは別の方法で、生命の尊重ということについて考えてみたようだ。


半田市の男子生徒による少年非行としての実際の「先生を流産させる会」は、席替えなどについての教師の指導のやりかたに不満をもった男子生徒が、明礬や食塩などを毒物に見たてて教師に毒を盛るという儀式的な悪ふざけをした、というふうに報道されている。映画では、この順序を逆転して、映画オリジナルの理由付けによって女子生徒が薬物を女性教師に盛り、女性教師が報復的に席替えを中止する、という物語に改変されている。


どうも世間の一部の人たちが半田市の男子生徒を悪魔化することに躍起になっているようなのだが、半田市の男子生徒たちがやっていたのは、「儀式」なのである。私は、どちらかというと、面倒なことはとにかく上部に報告してしまい、自分で決断する責任を免れようとする学校や教育委員会が、愚かな中学生の幼稚さをそのまま世間に通報したことのほうが、男子生徒たちのイタズラが具える悪徳よりも、より悪徳の度が高いように思うのだが、どうだろうか。教師たちが男子生徒を本気で叱って、しかしそのことは世間に対しては黙っていたほうが、よほど教師として徳性の高い行いであったろうと思う。幼く愚かであるから学校に通うのである。教師が生徒の愚かさを引き受け世間にたいして彼らの秘密を守れなくてどうするのだろうか。


半田市の男子生徒が「先生を流産させる会」を立ち上げるさいにいかなる準備をしたのか、報道ではよくわからない。しかし、実際に悪ふざけに参加していない男子生徒も「先生を流産させる会」に所属していて、教師から事情聴取をうけたそうだから、なにか名簿のようなものはあったのかもしれない。映画の『先生を流産させる会』では、女子生徒らが秘密結社まがいの団結の儀式をとりおこなうシーンが描かれる。


半田市の「先生を流産させる会」の事件(マスコミの送り手と受け手が勝手に事件化した事例にすぎないと思うのだが)と、映画『先生を流産させる会』の関係について、制作者が実際の事件からいくつかの要素を改変したことを、悪徳であると判断する人々がいるが、たとえば、DieSixxさんや近藤史恵などだが、この立場は、半田市の事例の男子生徒たちの思想が映画に採用されなかった理由を、映画の制作者が男子生徒らの醜悪さについて愚かさゆえに気付けなかったか、同性のプライドゆえに目をそむけたかったから、としているようだが、それは本当だろうか、と思うのである。


もし忠実に半田市の事例を映画化するとすれば、「度胸がなくて報復とも言えないような報復しかできない自分に、しかし誇大な名称をあたえることで自尊心をなぐさめる」いたって幼稚な少年の肖像しか描くことはできないのではないだろうか。それはそれでちょっとしたコメディの小品をつくることができそうな気がするが。近藤らは、半田市の少年たちの行いの幼稚さを切り離して、その思想の邪悪さをことさらに重視するのが気になるのである。


鑑賞前の人の興を削ぐことはあまり言うべきではないので注意しながら書くが、映画『先生を流産させる会』は、ある特殊な女子生徒の存在を主人公の女性教師があらためて知るという物語なのである。物語の構成がそうなっているので、女子生徒の邪悪さについての考察は、後景に退き気味になっているのが興味ぶかい。あらためて、ある種の現実を女子生徒からもたらされた女性教師が、どのように変貌するのかを、観客は注目して欲しい。

不謹慎なあれこれ

林真須美冤罪説について。私はこの説を週刊誌で読んで、たしかにありそうな話だなあと思ったのだが、しかし、詐欺常習犯だったことを理由に利益のないこと(カレー鍋への砒素混入)をするはずない、とまでは言えないのではないかと最近は思うようになってきた。


人間、魔が射すということはあるものだ。もちろん(混入したことを証明する直接の)物証がないのだから、私はいまもって真須美無罪説だが、しかし、だからといって真犯人ではないとまでは思えないのだ…。

  *  *  *

映画『先生を流産させる会』について。自説への自信に翳りがさしてきた映画擁護論者のブログを読んだ。(http://d.hatena.ne.jp/DieSixx/20120311/p1)。私はこのブログを読んでいて、示威行為のメカニズムの微妙さということを思った。


何度でも注意を喚起したいのだが、半田市の「先生を流産させる会」は、教師へのいやがらせというよりは、仲間内の悪ふざけが露見したせいで大騒ぎになった事例なのである。


うまい例えが浮かばないが、人々が半田市の「会」の男子生徒を憎むのは、天皇制の信奉者が、天皇にパチンコ玉を撃った奥崎謙三を憎むようなものか。奥崎が天皇を狙って果たせなかったように、男子生徒も会の目的を果たせなかった。


もちろん、社会の人々も男子生徒たちが本気で教師の胎児を狙っていたのだとは思わずに、その不敵さに怖気をふるわせたのが大部分だったろう。「もしなにか事故があったらとりかえしがつかない」から、男子生徒が叱られてよかった、という側面は、もちろんある。


私が男子生徒たちから連想するのは、首都大の「ドブスを守る会」である。仲間内の悪ふざけにとどまらずにネットで自分たちの活動を紹介した点は、首都大の学生たちは、半田市の中学生たちよりも幼稚であった、とさえ言えるかもしれない。


首都大の学生たちは、自ら「犯行声明」をだして己をのっぴきならない立場に追い込んだが、私は、半田市の事例をどう考えたものかと思うのだ。教師の自らへの処遇に腹をたてた生徒たちが、とくに自分たちを何とかの会などと規定することなしに嫌がらせをしていたら、というパターンを想像するのである。


半田市の事例は、女子生徒による男子生徒らの非行の発見と別の女子生徒による通報がなければ露見しなかった、ということが、重要なファクターとしてあるのである。まずまっさきに教師自身が男子生徒たちの非行を認知したら、たぶん表沙汰にならない方向で事件を処置したのではないだろうか。


犯罪者や非行者の心理学は複雑なものだが、半田市の男子生徒は「先生を流産させる会」を内々にしろ名乗ったということが興味ぶかい。この名乗りがあることで、ただの物質にすぎないDNAがRNAと交差して複製されしまいには一個の生物になるように、報道が生産され、映画が創作され、さらにその論評が交わされるまでにいたったのだ。


殺意のない行為に殺意を読み込んで自己欺瞞し、また他者にもその瞞着を衒うというのは、いたって創作的な行為である。悪ふざけする人間が抱く内面の複雑な過程は、簡潔に論述するのがなかなか難しいもので、自己欺瞞に手を染めつつそのことに自覚的であることで、自分は自己欺瞞をしていないのだと自己規定するという、幼稚でしかも複雑なプロセスが、男子生徒のなかに存在したのだろう。


リンク先のブログ筆者はどうやら女性のようで、もちろんちゃんと調べていないので間違っていたら謝らなければならないが、女性が良く言及し、一部の利口な男性もまた指摘する「女性蔑視」というのは、男性側からすれば蔑視ではなくて「自分が女性ではないことの不思議さについての表明」というほうがしっくりくる。不思議だ不思議だでは話にならないから、一部の愚かな男性はこの不思議さへの不快感を梃子にして性差別主義を信奉することで、この不思議さから自己を開放しようとする。私はアマチュアの科学者だから、不思議だね、そしてまだこの理由は解明されていないね、で終わりである。男女論でまっとうでありかつ面白い話題というのは、あまりない。


私も男性なので、なんとなく判るのは、半田市の男子生徒が女子生徒だったらと発想することの「善意」である。事実とは何か、とか、創作とは何かということに関しての、男と女の解釈の違い、映画の作り手と受け手の解釈の違い、ニュースを受け流す人と、ネットで論評しないと気がすまない人との解釈の違い、などなどが複雑に、整理されないままに、ネット上で展開されているようである。人が死んでいない殺人事件を解くような気分である。


映画のタイトルを擁護する人は、半田市の男子学生もまた擁護しなければ論理的ではない、と私は思うのである。私は大塚英志宮崎勤を擁護したのと同程度には、半田市の男子生徒を擁護してもいい、と思うのだが。この騒動が裁いたのは半田市の男子生徒たちではなく、報道に論評しなければ気がすまないまでに傲慢になった私たち自身である。

「ソウ」シリーズの機知

映画「ソウ」の第一作は、ソフトが出回るようになってからわりと早い段階で見て、けっこう楽しんだのだが、続編にはなぜか食指が動かなかった。


シリーズはずいぶん長く続いて、7作目でやっと打ち止めだそうで、よくそんなに続編が続いたなあと思った。


昨日、有料配信サイトで、全作を通して見たのだが、続編というよりは、外伝というか再話、語りなおしの手法で作品をつくっていて、これには製作者たちの機知をいたく感じたのである。


後付けの設定をだらだらと続けて映画を構成することは一般には下手なやりかたと意識されているのだが、多分続編のことを考えずに面白さ優先でつくられたであろう第一作にたいして、どのような膨らまし方が可能かスタッフらが知恵を絞っているさまがうかがえて、これはとても楽しいシリーズだった。


陰惨な人体損壊ゲームを仕掛けてくる犯人が、じつは被害者を悪人から選んでいたという設定が明確になってくる5作目から、だんだんありがちな感じの平凡な作になっていくが、2、3、4作目あたりはかなりいい。作り手が観客に仕掛ける騙しのテクニックのあれこれに唸らされた。

ユング

『人間と象徴』『心理学と錬金術』『自我と無意識の関係』『黄金の華の秘密』『空飛ぶ円盤』などを斜め読みした。


結局のところ、心は広大な海洋で意識はそのなかに浮かぶ小島に過ぎない、ということを思うのだ。それ以上にうがったことをいおうとすると、言語に、それはつまり人間文化の過去にと言い換えられそうなのだが、囚われてしまう。


意識は、本当に進化してきたのだろうか。もしかしたら表現を積み重ねてきただけなのかもしれないのだ。


とりあえず、とっかかりをつくったという意味で、よい読書体験であったとは思うのである。錬金術やマンダラについて詳しくなろうとは思わない。第一、ユングのフォロワーたち、ニューエイジ思想の使徒たちがどんな感じのものか、私たちはおおまかな「あたり」をすでにつけている。